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Kei Ota -「えいぞう」展を終えて –

INTERVIEW 2018.01.23
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©Kei Ota

2017年秋、およそ2ヶ月間に渡りAIRY(Artist In Residence Yamanashi)に滞在した太田恵以(Kei Ota)[以下、太田]にとって、甲府は実父の故郷でもある。幼少期、毎年のように訪れた思い出の街であるここ甲府で、会ったことのない実祖父の記憶を辿るプロジェクトは、祖父の名前・栄造にちなんで「えいぞう」と名づけられた。映像メディア作品を中心に構成された展覧会は、過去-現在という時空を超えた家族の存在、また二ヶ国間で揺れる太田のアイデンティティに対する問いかけを繊細に浮き立たせた。

著者はAIRY代表の坂本氏を通じて太田のことを知り、サイト・スペシフィックな展開をみせるであろうこのプロジェクトに当初より期待を寄せていた。それは自身の故郷に対する愛憎入り混じった個人的感情からくる関心でもあった。とにかく太田に一度じっくり話を聞いてみたいと思っていた。話題は「えいぞう」展に留まらず、太田のバックグラウンドや今後の展望にまで及んだ。

AIRYでの展覧会終了後、太田はパートナーのジェレミー・ヴェラルリーと共にタイ、ラオス、ヴェトナムなど東南アジア各国を巡る旅に出ていた。短い旅を終えて、12月に再び甲府に舞い戻った太田は、底冷えする盆地特有の寒さに震えていた。

−甲府の冬は寒いよね。滞在が秋で良かったでしょ。
そうだね。甲府の夏のこともよく知ってるし苦手だから、秋に決めたの。もともとニューヨークでMFA(美術の修士号)を取得するために大学院に行こうと考えてた。その大学院に受かったら、夏の3ヶ月間くらい日本に滞在してみようかと。でも難関校で入学できなくて…これも良い機会だから、少し長めに日本に行った方がいいかもねってことになったんだよね。それで6ヶ月間日本に行こうと決めた。AIRYでは結局やりたい放題だったから、大学院入らなくて良かったと思う(笑)

−帰国してもう一度トライしてみるつもりは?
トランプ政権が提案した学費に税金を課す法案(「GOP tax bill」)が通って、院生にますます借金が増えるシステムになっちゃった。それだったら日本の大学院に行った方が安そう。日本なら院卒でなくても画家として活動できるかなって感じてる。ニューヨークだと高い家賃を払うために働くことで精一杯で、時間をかけて制作する余裕がないんだよね。今年は名が知られてるアーティストだって来年は分からない。ギャラリーに所属していても、ギャラリー自体の経営がギリギリだからね。英語だと”Financial Suicide”(財政的な自殺行為)って言うんだけど。作品の売り上げが数年後にならないとアーティストに支払われないって話もよく聞く。それに若い頃はニューヨークの生活も良かったけど、20代後半になった今は少し違うかなって思ってる。

-そもそも表現者になろうと思ったきっかけは?バレエ一筋の生活を16年間送ったのち、2013年にニューヨーク大学の美術学部を卒業しているよね。
アメリカの小学校でも先生によく”What do you want to be when you grow up?”(将来の夢は?) って聞かれるんだけど、幼い頃からバレリーナか画家って言ってた。小学5年生のとき何になりたいかって絵を描かないといけなくて、1枚の絵に線を引いてバレリーナと画家になっている2人の自分を描いた。油絵を描いてる間、踊ってるバレリーナとかね。バレエは4歳のときに大阪で始めてる。そのすぐ後に東海岸に引っ越してるけど。絵を描くこともずっと好きで、どっちも自分の得意なことだったからとても自然なことかな。

−「えいぞう」展では映像作品がメインだったけど、メディウムにこだわりはある?
去年亡くなってしまった叔父さんが写真家だった。*1 日大芸術学部の写真学科卒で、タイやラオスを撮影していた。NHK出版の写真集の仕事で北極圏にも行った。このプロジェクトを始めるまで知らなかったけど、おじいちゃんも独学で写真を撮っていた。家族にそういう人がいたから写真っていう表現方法については理解していた。
バレエをやっていたときにバックステージの写真を撮り始めたんだけど、その頃に本当にバレエをやりたいかが分からなくなって…。同時にバレエという表現方法が硬すぎて自分に合わないと感じはじめた。バレエをずっとやっていたから、普通の高校生の生活を送りたかったってのもある。

*1 太田亨:1961年山梨県甲府市生まれ。1984年日本大学芸術学部写真学科卒業。代表作に写真集『「天空の国」西チベット ザンスカール』、『西新井大師 大曼荼羅』、フォト・ドキュメント『ヒロシマの「生命の木」』大江健三郎著(すべてNHK出版)など。
web:www.photo-asia.info

−バレエを辞めて大学で美術を専攻した後に何か変化はあった?
ニューヨーク大学の初年度にブラック&ホワイトの写真の授業を受けて、おじいちゃんのミノルタの一眼レフを使用してたんだけど、それが大きかったかな。現像作業も好きだったんだよね。暗室がすごく好きだった。静かだし。暗闇の中でイメージが湧いてくるのが好きだった。
大学では現代美術について学べたから、ヴィデオやパフォーマンスとかニューメディアにも取り組めた。そこでインスタレーションっていう展示手法も知った。
入学するときも油絵だけでは物足りないなって思っていたこともある。物足りないな、いやこれだけでいいんだよって(気持ちが)入れ替わることが未だによくある。一つの手法に集中した方がいいものが出来るかもと考えるけど、写真もヴィデオもそれぞれ違って面白いものができるから決められない。テーマによってはヴィデオが合うとかってあるんだよね。そういう違いにすごい興味あるし、だから踊りもまだ興味あるのかな。身体の表現方法が一番ピュアな表現方法だよね。


MOVEMENT, 2013
太田はニューヨーク大学の卒業制作として展示空間でバレエを踊るパフォーマンスを発表した。

アーティスト・ステートメント(略歴や作品のコンセプトをまとめた文章)を提出するときも悩んだ。子どものときからアメリカに住んでるから、完全にアメリカ人になりたいって思うけど、やっぱり違う。自分のなかの日本人とアメリカ人がぶつかる感じ。ニューヨーク大学で美術を学んだときも、バレリーナとしての自分の歴史が残ってたから、頭だけ使って表現することに葛藤があった。バレエはスタミナの消耗が激しいから、たとえば1時間踊ったあとの身体の状態は敏感。しかもバレエって実は筋肉の使い方を色々考えながら踊るんだよね。だから頭なのか身体なのかどちらなのかって考えていた。

−つまり自分のなかの二重性に自覚的になったのかな。
そうだね。だから表現手法についても油絵だけにするのか、写真にするのか踊りにするのか…色々考えたけど、やっぱり全部やりたいと思っている。どのメディウムだったらそのテーマを一番自分らしく美しく扱えるか探ってる。自分のなかの日本とアメリカのぶつかり方は、バレエと現代美術のぶつかり方と同じで、一つの表現方法じゃないんだなって思うんだよね。
There’s no one way for anything(方法は一つじゃない)… だから一番いい生き方とかもないし、 一番いいreligion(宗教)もないし、there’s no one way ever(唯一の道はない)って感じ。そのややこしさと付き合ってる。

−ニューヨークという大都市から来て、甲府という小さな都市で滞在制作することは不安ではなかった?
とても不安だった。AIRYを知る前の甲府ってあんまりいい印象じゃなかった。子どもの頃は夏休みのたびに一時帰国して遊びに来てたんだけど、母方の実家が大阪で、大阪の方がいつも面白かった。甲府は岡島とおじいちゃんのお墓参りくらいしか印象がない。両親が離婚してるんだけど、子どものときから母より父と気が合ったこともあって、母と妹とは別行動で2人で甲府に来たり…その記憶と結びついてるから、あまりいい思い出はないね。大阪に比べたらつまらないし。そういう街に戻ってどうしようって思ってた。こんなに長くおばあちゃんの近くで生活するのも初めてだから緊張もしてたし。どんな作品を作ろうかなとか。

−ここに来るまでどんな手法で制作するかは決めてなかったんだね?
そうだね。だから油絵から映像まで制作できるように荷物がたくさんになった。去年亡くなった叔父さんのアナログカメラを譲り受けて。それは絶対使いたいなとは思ってたけど。

−AIRYのことはどうやって知ったの?
AIRYを知ったのは3年前。おばあちゃんがその頃甲府にオープンした寺崎Coffeeに行き始めたんだよね。お父さんもコーヒーが好きだから帰国中におばあちゃんと一緒に行って、店先にあったAIRYのポストカードを見つけた。3年前っていうとちょうど私がニューヨーク大学を卒業して社会人として働き始めた頃で、レジデンスプログラムを探してたんだよね。アメリカ国内でも一つ受かったんだけど、すごく費用が高くて、1ヶ月だけでこんな大金は無理だからやめて、同じくらいにAIRYのこと知ったのかな。自分がよく知ってる甲府で滞在制作できるなんてって感じでいつかはやろうとは思ってた。

-お祖父さんを題材にしようと思ったのはなぜ?
去年叔父さんが亡くなって、一週間くらい日本に滞在したんだけど、その時のことがとても印象的だったんだよね。日本語を喋る方が楽だなって感覚… 大人になってから初めてなったんだよね。英語の方が得意な自分がなんで日本語が急に… いつもほどたどたどしくないし、喋るのが楽だなって、なんでこうなったんだろうって感じで…。あと叔父さんの亡くなったのがショックで、日本に戻りたいなって去年の秋に結構感じてて。
パートナーのジェレミーもニューヨークでずっと働きっぱなしで余裕もないし、いずれ自分のレストランを開店したいって思いがあるのに、このままじゃ絶対無理だから次の大きいステップをどうしようって考えてて。他国で料理学校行こうとか。ちょうど2人のタイミングが合ったんだよね。

おじいちゃんは私が生まれる前に亡くなっていて、私もよく分からないんだけど…母の家系は画家とかクリエイティブなタイプじゃないんだよね。叔父さんが写真家になったのは、おじいちゃんの影響らしく。実家で現像していたのを見て、自分も写真家になりたいって思ったんだって。叔父さんは写真家としてフリーランスとして30年間活躍していて、気づいたら私と同じ表現者としての人生を送っていたのに、そういうことを聞けなくて惜しいなって。私にアーティストの遺伝子があるんだったら、おじいちゃんから始まっているんじゃないかなって。その脈絡を確かめたかった。

えいぞう exhibition October 28 & 29, 2017
Gallery AIRY, Kofu City, Japan
Documentation by Ikumo Motosugi


家族写真に写された場所を再訪し撮影。一つの画面に過去と現在が同居させ、コラージュのように記憶を構築した。


割れた鏡、釘


中央の映像はスマートフォンを身体に巻きつけ、自転車に乗って撮影された。(eizo AIRY bike)映像はときに大きく揺れ、記憶という曖昧な感覚を彷彿とさせる。途中に挿入されるモノクロームの映像は祖父が撮影。


eizo AIRY bike video


Unmoored boat projection
キッチンを利用して投影された映像には、太田が頻繁にモチーフにする窓が映っている。シンクに浮かび、心もとなく揺れ動く小舟は太田自身でもある。


(上)太田栄造、太田亨ポートレート (下)ブラッド・ゼラー写真集

−「えいぞう」展には記憶や経験を再構築して自身と対話するという目的があったけど、それは達成できたと思う?また展覧会を終えて何か心境の変化はあった?
達成できたと思う。本格的に一部屋自由に展示するのも久しぶりだったけど、そのときの気持ちや頭の中で考えていたこと、イマジネーションを実際に形にできて良かった。アーティストとして自分のレベルチェックもできたと思う。アメリカと日本の間のアイデンティティの変化についての作品も作りたかったし。亡くなったおじいちゃんと叔父さんの作品ももっとたくさんの人に見てもらいたかったし。展示作業が終わったときから考えてたんだけど「えいぞう」展は自分の家族間の別れについての思案だった。特に展覧会のオープニングに離ればなれになった家族が駆けつけてくれたとき、私のなかで家族が再び一緒になったと実感した。予期してなかったけど、この滞在制作と展覧会がそうさせたんだと思う。

心境の変化というか、アーティストとして今はこういう展示や活動をもっともっと日本でもアメリカでもしたいと望んでいます。特に、この二つの国のコンプレックスについて考え続けたい。あとちょっと違うプロジェクトだけど、おじいちゃんの写真を写真集にまとめたい…。

−滞在後、恵以ちゃんにとって甲府はどんな街になった?
すごく居心地がいいね。柔らかくて楽しい街だね。子どものとき感じていた何もやることがないって街じゃなくて、同じような年齢の人や美味しい食べ物があって、アートと日常の関係について考えてる人が多いから、私みたいに。そこら辺ですごい甲府が好きになった。実は滞在期間をAIRYの泉さんのアドバイスもあって2ヶ月に伸ばしたんだよね。これは1ヶ月で終えるプロジェクトじゃないって。それも良かったと思う。

−滞在制作を終えて、東南アジアも旅行して…場所ってどのくらい自分に影響すると思う?
面白い質問だね。それはすごく個人的な問題だと思う。ニューヨークにいて思ったのは、私はすごく場所にセンシティブで影響されるんだよね。たとえばジェレミー曰く、東京に一緒に行ったとき、私がまるで別人だったみたいって。話し方もきつくなるし、歩くスピードも早くなる。ニューヨークにいるときはストレスがいっぱいあるし、時間のペースが全然違うから、ああしなきゃ、こうしなきゃって。余裕もって制作ってのはできなかったね。いつも焦りながら作ってた。大学卒業してからアトリエ持って、働きながら制作してたけど、いつも焦ってた印象。実妹が東京のプロダクションで働いてるから、今回の展覧会を見にきてくれた。彼女はニューヨーク大学の卒業制作も見てるけど、これまで見た展示で「えいぞう」展が一番あなたらしくて余裕があったねって言ってた。それは甲府っていう場所に影響されたのかなって思う。

−甲府に来たことで、自分を見つめ直す時間ができたのかな?
うん。それでまだ日本にもうちょっといてもいいのかなって思ってる。いろんな展示をしてみたいし、グループ展にも参加してみたいから。いい作家になるには、ゆっくり時間をかけてじっくり制作するのが大事だなと思う。それが結局、ニューヨークで生活するのは違うかなって思ったきっかけかも。田舎は退屈だからつらい印象かもしれないけど、作家としてこういうものを作っていくんだって、確立してからニューヨークのような大都市に出た方がいいのかなって思ってる。

−今後どんな制作をしていきたい?
来年1月は甲府にいるつもり。このままAIRYのスタジオを利用して制作しようと思って。甲府みたいな場所だとスタジオも安く見つかるし。家賃が安いと生活も全然違うし。そういうのが分かったから、今はニューヨークにはちょっと戻れない。物価が高すぎる。ジェレミーとも話してるけど、自分の場所、レストランとかまだ分からないけど、せっかく日本にいるんだったらどこかで働いてみてもいいかと思う。ずっといるつもりはないけど、余裕をもって制作を続けられるからね。北杜市もそうだけど、ギャラリーやカフェをやってる人が多いから、展示したいって言ったらすぐできるし。ここでtake advantege(機会を利用)したい。作品をもっと作って、自分の絵もテストできる時期だと思うんだよね。ニューヨークはそれがないから、自分が作家として進化できないような場所だと感じるから。こういうところでもっと展覧会もやっていきたい。

−最後に旅の感想を教えて。
東南アジアは叔父さんが写真家としてよく行っていた場所だったけど、同じアジアでも日本とはまったく違った。ヴェトナム人はよく笑ってとにかく明るい。人生をエンジョイしてるなって感じで惹かれた。叔父さんはラオス人が大好きで。彼らは優しくて世界的にみても犯罪がない国なんだって。でもヴェトナム戦争による被害が多い土地で、今でも貧乏な国だし、それってアメリカのせいだから申し訳ないなと思った。爆弾の被害がまだ残ってるところもあるし。

編集長・成嶋:インタヴュー中、お金というキーワードがよく出ていたように感じます。お金を得るために成功を目指すことと、お金に拘らず好きなことを続けることどちらが大事だと思いますか?僕自身が2020年のパラリンピック出場を目指しているのですが、金銭的なことをいうと色々なことがボランティアみたいになりがちで…。
もちろん金銭的な余裕があれば、ニューヨークで暮らしながら制作するということも考えると思います。でもアメリカは日本と違って、人種の生活格差が激しすぎて、生活の安全レベルもまったく違うんですよ。教師としてNPOで働いていたので、貧困地域の学校で学生に教えていたし。ニューヨーク大学もそうだったけど、バレエもお金持ちの世界だから。私はニュージャージー州の庶民的な街から通ってたけど、クラスメイトはマンハッタンのお嬢様たちで。そういう子たちと踊っていたし、お金の使い方の違いも見てきたから。お金がありすぎると良い子は育たないと思った。お金を振り回してる子をいっぱい見てきたから。そういうことに私は敏感だと思う。自分がやりたいことをやってるのが一番いいと思う。

−お金と幸せはどこまで関係しているのかな。
私は資本主義が不幸を呼んでると思う。みんな資本主義の限界に気づき始めている頃。お金持ちになることだけが幸せじゃない。アメリカと日本の侵略の歴史って結構似てるし、歴史認識が未だに確立できてない。たとえばドイツとは大違い。そのプライドが似ていると思う。間違いはあったけど悪いことはしてないと言い張ってる感じがね。アメリカにずっと住んでて今日本に来て、それぞれのコンプレックスが面白い。国って人間みたいだと思った。アメリカはまるでティーンエイジャーみたい。自分の過去とぶつかってる21歳の子ども。ややこしい(笑)


2017年12月中旬のAIRYにて。壁に架けられた油絵は制作中の新作。

太田恵 Kei Ota
1988年(昭和63)に大阪で生まれ、主にアメリカ、ニュージャジー州で育つ。ニューヨーク大学の美術学部を2013年に卒業するまでは、16年間、バレーダンサー一筋の道を歩み、ニューヨーク・シティ・バレエ付属のスクール・オブ・アメリカンバレエ(SAB)を卒業する。現在は、自身の作品作りをしながら、スタジオ・イン・スクール(美術の授業がないニューヨーク市公立学校をサポートするNPO団体)に登録し、公立学校やクィーンズ美術館で子供たちにアートを教えている。web:keiota.com

特別協力:Artist In Residence Yamanashi
撮影:成嶋徹
聞き手・テキスト:神田裕子

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神田 裕子
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